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暇文 暇なときに書いてみた文章

神出鬼没の自己言及

「ガールズ&パンツァー」は天啓である

今更ながらガルパンにめちゃくちゃハマった。Amazonプライム会員が無料で使えるAmazonビデオと言うサービスで、テレビシリーズが全話視聴可能*1だったので、ちょうど一ヶ月ぐらい前の休みの日を利用して一気見したら即堕ちした。姫騎士並みの速さである。

実は3月ぐらいに一度1話だけ見て、その当時は「ほーん」という感じで可もなく不可もなくだなあと思っていたのだが、一気に見たらこうなった。シリーズが進むに連れて盛り上がるタイプの作品であることは間違いない。

そこからはもうお察しの通りで、結局テレビシリーズは何周も見たし、劇場版も3回見た。立川も4DXも行った。ドラマCDも聞いた。ブルーレイはまだ買ってない、すまない。スタッフお疲れ様本も買い逃した、つらい。というわけで世間で言うところのガルパンおじさんと化してしまった。できればお兄さんと呼んでほしい。

よって本記事のタイトルにあるようなことを平気で言う人間となってしまったわけだ。ガルパンはここまで人を変えてしまうのか。本記事は個人的に考える「ガルパンのここが天啓ポイント高い!」という要素を10個ほど書いておく。

 

*1:6月30日までだったらしく今は利用不可になっている。残念。

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「くまみこ」を見ろ

お題「新アニメ」

「くまみこ」というアニメがある。

見てほしい。

東北の田舎の山中の村で、巫女を務める少女まちと、ヒグマのナツがわいわい仲良く暮らす日常を描いたアニメである。いわゆる日常系。ゆるい。

このまちちゃんがひたすら可愛い。可愛い。

まちちゃんは都会に憧れている。ど田舎から出たがっている。背伸びしようとするお年ごろの女子中学生。その感じが良い。いわゆる田舎者なので、ユニクロ程度のものでテンションが上がっている。可愛い。

ナツもなんかのんびりした性格で、ヒグマの割に全く怖さを感じさせない緩い奴だ。日本人の熊に対する見方がまた牧歌的にさせられる。まちちゃんと丁々発止で良いコンビを組んでいる。

二人の日常をひたすら見ているアニメからして、特に何か重大なイベントは起こるような気がしない(今のところ)。だが、その「頭使わずに見られる」感が深夜アニメとしてすごく良い。このブログ記事も頭を使わずに書いている。つまりはそういうことである。

ちなみに原作漫画は未読だ。それでもアニメとしての演出、テンポが原作の魅力をそれ以上に醸し出しているような気がしてならない。

「くまみこ」を見ろ。

今日はそれだけだ。

2016センター試験国語を解いて〈小説編〉

前回の続き、今回は小説に関する感想だ。気がつけば3月に入り全くもって時季を逃したと言わざるをえない。しかしこのブログとしては平常運転である。第一問評論に関しては、前回の記事を見てほしい。早速始めていこう。

問題文は前回同様に、東進ハイスクール「大学入試センター試験解答速報」を参照した。解答も載っているので暇な方は解いてみると楽しい。

 

 題材文は佐多稲子『三等車』である。鉄道の車中を舞台に、乗り合わせた人々の出会いから物語を紡ぐという小説はそう珍しくもないと思える。オリエント急行殺人事件」という、この場合全く的はずれな具体例しか思いつかないのは許してほしい。Wikipediaによると、国鉄の客車の等級で三等まで存在したのは1960年以前のことだとあり、確かに第二問前文の記載と一致する。60年ほど前の小説にはなるが、言葉遣いは当世風であり難解な表現もなく、先述のように題材としても珍奇なものではないので、文章理解はすんなり進んだと思われる。

 

物語は主人公「私」が鹿児島行きの急行列車に乗り込むところから始まる。混雑する列車の中、三等車に一つだけ残っていた座席を闇取引によって購入した「私」は、そこである一家に出会う。その一家とのやりとりから、一家について「私」がどう思っていたのかを巡って問題は構成されている。

 

問一。お馴染みの表現問題。文章中で馴染むものを選ぼうとすると案外3つぐらい残ってしまうので、あくまで辞書的な意味合いに終止して考えることが絞るコツである。今回は日常でも使われるような表現が多くてそこまで難しくない。むしろこの表現問題はセンター模試で出てくるやつの方がヤバい。(ア)、文脈でも分かっちゃうけどしっかり考えるべき。(イ)、1や2は間違えやすいかもしれない。(ウ)、1も何となくそれっぽい感じがするが、「見栄をはる」と「偉ぶる」はまた態度として違うのだ。

 

問二。座席に座るまでの心情なので、例の家族とはまだ出会っていない。心情を聞かれているので素直に心情が書かれた部分を探しだしてみよう。例えば、12行目「私はその男との応対も心得たふうに言って、内心ほっとしていた」とか18行目「私は周囲に対して少し照れながら再びほっとした」とか28行目「先方も、私も、安心したようになって」とかが分かりやすい。

流れをまとめると、周囲の客が大勢立っている中で闇取引で切符を買い席を確保した「私」は何となく不安なのだが、向かいの婦人も同様に闇で切符を買ったという話を聞いて「自分だけじゃないんだ」と安堵しているわけである。これが現代文なら「日本人特有の~」みたいな論理が始まるかもしれない。

というわけで答えは1。2は「ためらいながら」が間違い。「心得たふう」には出来た程度に、上々の闇デビューであったのだ。3と4は言い過ぎの選択肢。耐えがたくだとか罪の意識だとかそういうのは告解室でやってくれ。5は「仕事の準備ができることにほっとしている」が間違い。「私」はスタバのカウンター席にいるドヤ顔MacBookさんではない。意識高そう。

 

問三。険悪な雰囲気を見せていた夫婦ではあったが、男のほうは、別れの間際にはホームで妻子を見送り、子どもを気遣う父親らしい素振りを見せていた。そのことを妻は知らない。どのような事情かは知らぬが、妻の中では夫が「苛立った独りよがりな男」として認識されたまま別れとなってしまうのか。それはいけない。そんな気持ちを隠せない「私」は、つい妻に話しかけてしまうのである。

84行目が分かりやすい。「彼女は~知らずにいるのだ」とあるように、「彼女が、夫の父親らしい姿を見ずにいることがどこか残念だ」と思っているのだ。この場面で伝えたいのは父親の姿であって、子どもの姿ではない。よって3と5は不可。1は「和解させたい」が言い過ぎ。2は「夫のことを思いやってほしい」がズレている。やはり父親としての側面の方を重要視したい。よって正解は4。この前の場面で子どもを預かっている「私」、実はもう結構この家族に感情移入しているのである。

 

問四。心情を問う問題とはなっているが、実際のところ「明日までの汽車の中にようやく腰をおろしたふうだ」という比喩表現の意味を汲み取れるかがキーだ。86行目からは「私」と母親との会話が始まる。この会話パートを読んでみれば、とうとうと身の上を語る母親、それに共感や同情を覚えながら話を聴く周りの乗客という景色が見て取れる。傍線部Bのすぐ前の116行目では「三等車の中では、聞えるほどのものは同感して聞いているし、すぐその向うではまたその周囲の別の世界を作って、関りがない」とあり、分かりやすい。要するに、この母親は「落ち着いた」のだ。すごくざっくりした言い方だがそのものずばりだ。この点を踏まえながらの解答になる。

1は「励まされたことで冷静になることができた」のがズレている。会話パートを読めばわかるが、直接的に励まされているわけでもなく、むしろ母親が一人語っているうちに冷静になってきたという方が近い。東進は「ぶっきらぼうな言い方に苛立ちを募らせていたのではなく、男性の考え方全般への苛立ちであるから×」としているが、一つ選択肢切るには些細な感じもする。4はおなじみの「何言ってんだこいつ」系選択肢。駆け込み乗車したサラリーマンじゃねえんだからさ。5は「まくし立てた」が間違い。本文中にもあるように「ぼそぼそと」彼女は語った。2と3が残るが、「落ち着いた」という表現をより色濃く翻訳できている方を選べば3となる。2は切ろうとすれば決め手に欠くはず。

消去法という相対評価ではなく、「傍線部を正確に表せているか?」という絶対評価を用いて考えるパターンも必要なので覚えておきたい。3の後半部「長い距離を移動する気苦労を受け入れるぐらいに、落ち着きを取り戻している」が「明日までの~」の言い換えになっているのがわかるだろう。

 

問五。Twitterではこの部分を表して「パパー!!!パパー!!!!!!」のようなネタツイートが出回っていたが、ネタならともかくガチでそんな激情的な台詞として読んでいたのだったら割と読み違えている。140、141行目を見れば、「私」が男の子をどう観察していたかが分かる。男の子は「可憐に弱々しく、無心」に「父ちゃん来い」とつぶやいているが、視線は「走り去る風景が珍しいというように」外の景色に向いている。ここで思い返したいのはそれまでの男の子の描写だが、決して雄弁な子ではない。自分の想いを伝えるのはむしろ苦手な方と見え、例えば79行目では、父の別れの言葉にも無言を貫いている。

そんな男の子が発した「父ちゃん来い」という言葉は、いわば心の深いうちから無意識にひねり出された願望のようなもので、これがわかっていれば2が素直に正解と分かる。1はおとなしくした理由が間違い。130行目参照。3は一文目が丸々間違い。男の子は車窓の景色が気になっているから見ている。私も新幹線とか乗ると大体こうなる。4は三文目の「改まることを願っている」が間違い。「私」は別に父親に対して否定的な見方は示していない。むしろ父親としての姿を垣間見ているのは問三のとおりである。5は「父親のことだけは」が違う。母親のことを信用していないわけではなさそうだし、そこまでの記述はない。

こうして見れば、2は「いじらしく感じて」「気がかりに思っている」など、言い過ぎになることを避けて上手くぼかした表現をついている。センター国語の正解選択肢は、こんな感じで極論となるのを避けるのが上手い。(ちなみに同じことが倫理などの公民科目にも言える)

 

問六。文章表現問題。私これ嫌いなのよね。今回は適当でないものを選ぶので、当たり前だが、一文一文見ながら逐次×がつくところを探していけばよい。正解は1と4。1は「一体感が徐々に壊れ始めている」が間違い。なにそれ怖い。4は「次第に気持ちを高ぶらせていく」が間違い。だから「ぼそぼそと」って言ってんじゃん!

この手の問題は消去法で間違いを消していくほうが容易い、というかそれぐらいしか確実な手段がない。例えば2の「推測させる効果を持っている」を◯とするか否か、なんてのを考えだしても、そんなのぶっちゃけ人によって違うし、「俺は推測できなかったから×でーすwwwwww」なんて考え方は論外なわけで思考の泥沼に至る。だから明らかな間違いを消していく。消去法は明らかな間違いが存在するときに使うからこそ有効な手段なのだ。

 

総評。昨年の小池昌代「石を愛でる人」は現代小説であったが、今回はまた近代に戻った。しかし最初に述べたとおり、平易な文章で読みやすく、評論同様にそこまで難しくもない問題だったと思われる。ちなみに短編小説全文からの出題はこれで5年連続だそうである。下手に長編を切り取るよりかは良いような気もする。オチが読みたくなってもやもやする必要がないし。

また、評論編でも書いたのだが、小説にネタが無い。もちろんそれはイレギュラーがないといいう意味で良いことなのだ。ただ傍観者としては一抹の寂しさを覚えなくもない、とか言ってると受験生に喧嘩売ってるみたいなのでやめる。

 

もし2次試験の国語問題で面白いのがあれば取り上げたいとは思うが、例によって更新頻度はお察しください。来年のセンターでまたお会いしましょうという感じで、さらば。ここまで読んでくださりありがとうございました。

2016センター試験国語を解いて〈評論編〉

1月16日、17日の土日で毎年お馴染みのセンター試験が行われた。かくいう僕も去年受験生として実際センター試験を受けた身であり、二日間に渡って試験を受けるプレッシャーや疲れは十分知っており、受験生諸氏にはお疲れ様の一言である。

しかしながら、受験が終わってしまえば(ぶっちゃけ受験生になる前から)センター試験なんて1月のお祭りみたいなもので、特に国語は毎年毎年話題を豊富に提供してくれる「いいネタ」である。そんなわけで、受験から解放された大学生という散々枕を高くできる身分の僕が、今年のセンター試験の内の国語を、しかも評論と小説だけしか解かないくせに散々文句を言う、という趣旨の記事である。

問題、解答は東進ハイスクール大学入試センター試験解答速報」を参考にさせてもらう。過去問データベースなども含めて東進には最近お世話になる頻度が高い。ありがたい。

www.toshin.com

とりあえずこの記事では評論だけ取り上げる。小説は多分次の記事で。

 

土井隆義『キャラ化する/される子どもたち』が今回の題材文である。「特定の物語を背後に背負」っていたリカちゃん人形は「どんな物語にも転用可能なプロトタイプ」へと変容したという話題を端緒に、多様化する価値観と共に複雑化する現代社会においては、一貫したアイデンティティを持つ人間像よりも場面ごとに異なる断片化したキャラクターを使い分ける人間像の方が、より適応しやすいものとなっている、といったところの論旨である。「キャラ化する」ことを筆者は肯定的に受け止めており、現代社会で人間関係を円滑に進めるための「誠実な態度」だとも述べている。この全体としてプラスに向かう雰囲気を掴めるか掴めないかが後でだいぶ効いてきそうな感じがする

 

問一。みんな大好き漢字問題。(ウ)だけ間違ってしまった。そもそも「かえりみる」と言われて「省みる」しか出てこなくて「顧みる」が思いついてない僕はどうなんだそれは。(ア)、営繕とかいまどき言うんだろうか。あんまり聞かない。(イ)、僕は最近束縛されたい欲が強い。何の話だ。(エ)、「天使が外界に舞い降りる」ってやたらファンタジックな例文だがどうした君は。(オ)、緊縮財政という単語はギリシャ経済危機などで案外聞き覚え多いのでは。

 

問二。これはすんなり決まると思う。2と5は因果関係がおかしい。3と4は変化の先がおかしい。消去法でも普通に解ける。正答の1は本文そのままスッキリである。

 

問三。僕が評論の中で一番時間使ったのがこれ。正答は2。1と4は即座に消える。3は「社会的に自立した人格」が本文で触れられてないように感じた。5は「合致させながら」が例によって「言いすぎ」の部類であると思う。外と内の揺らぎはあるのだから、合致させたら揺らぐ余地もあるめえ。2と5でだいぶ迷ったのだが、河合塾の講評では「5がだいぶ紛らわしいよね分かる分かる」とあるので流石受験生の気持ちが分かってらっしゃる。代ゼミの「やや易」という評は個人的には受け入れがたい。「選択肢の判別も容易」とあるが、これを容易というなら問二なんて視力検査だろう。

 

問四。代ゼミ的には「やや難」らしい。(´・∀・`)ヘーソウナンダ まあでもそこまで簡単ではないと思う、正答は4。3と5はいわゆる(?)「何言ってだこいつ」系選択肢である。即消え。1は「一貫性」という語句が引っかかる。第9段落で「日々の生活においても場面ごとに異なった自分が存在して、一貫性を見出すことは難しい」という趣旨のことが述べられている以上これを選ぶわけにはいかない。2と4の二つで迷ったのだが、最終的に、本文で述べられている「不透明な人間関係を透明化する」「あらゆる場面に対応可能」という二つの理由のいずれをも述べている4のほうがより適切だろうとして判断した。2は前者サイドの論しかないのが気になる。気になるなら選ばなきゃ良い。

 

問五。この文章を読んだ生徒達がそれぞれ感想を述べて、趣旨に最も合致するものを選べという問題。この形式は1995、96年度にも出題されたと東進、駿台代ゼミで言及がある。身も蓋もない言い方をすれば、問題の形式などに惑わされず本文の趣旨を述べているものを選べばいいというこれまでどおりのセンター評論だ。というわけで正答は2。

 

問六。例によっての文章表現・構成設問。(ⅰ)はどう見ても1が違うので選びやすいのでは。リカちゃん人形が我々に対して敬意を持っているというのはどう考えても変である。(ⅱ)も分かりやすい感じがした。3の「やや異質な問題」という語句がそもそも選択肢の中で異質に見える。第12段落で述べられている例は、キャラを一面的に演じることが社会で求められている例であり、それは第10段落の「多面性を削ぎ落として透明化させた人間関係」の最たるものであろう。論述方針は変更されていない。ところで東進は「適当でないものを選ぶ点で、やや難」としているが、それってそこまで難易度に関わる要因だろうか。

 

第一問総評。センター評論としては多分平年並みかそれよりも若干低めの難易度。文章量が減少したのと、ポストモダン社会という割と聞きかじったテーマについて述べられていたことから取っ付き易かったのではと思う。出題形式に変更が見られるが、そこまで難易度を左右するものとも思えず、「現代文を解く」という行為ができている受験生なら特に苦労せず解ける問題設定ではないかと思う。そういう意味では良問。

例年、センター国語はネタが多いということで今年もTwitterで話題が出ていたが、正直なところ小説に大したネタはなく、評論にお鉢が回ってきた感じで、脚注のついた「やおい」や「メイド・カフェ」という単語が本文中に取り上げられていることに注目が集まっていた。しかし、これも例年のことなのだが、センター国語でネタになる部分というのは大体は本文の論旨にそこまで影響ない場合が多く、今回も単なる具体例である。外野はともかく受験生はそこで気取られてると死ぬぞ。

(余談だが、「具体例は読み飛ばせ」というのは乱暴ではあるが受験現代文において一つの指針ではないかと個人的には思う。論旨を補強するための材料であり、論旨把握のためには必ずしも必要ないことが多く、後から設問の都合上戻って読み返すぐらいの勢いでも構わないと思う。)

むしろ面白かったのはその二つの語句の脚注だと思うのだが、流石に文章が長すぎるのでこれもまた別途に分ける。

そういえば某氏に言及されて気づいたのだが「大きな物語」という語句はフランスの哲学者リオタールが述べた概念で、ざっくり言うとこれが存在していたのが「モダン」、これが終焉したのが「ポストモダン」なので、ポストモダンを考える上では必修ワードの一つである。学校や予備校の授業なり参考書なりで、こういう近代思想に少しでも触れていると論旨の受容がすんなり行くだろうにと思う。現代文の教科書はさっさと近現代思想の変容と概要を説明するページ作るんだよ、あくしろよ。

 

先述の通り、小説は次回に。

秋、雑感

気がつけば10月も終わりかけている。この年も残すところ2ヶ月余りという事実に思い当たる度に、時の流れの速さだとか自分の為したことの少なさだとかにどうも目が留まる。人が焦り出すのは、いつでも終盤だ。

などという、毎年毎年決まりきったようなことをこの季節になるとどこかで誰かが書き零している。これはいわば時候の挨拶のようなものだ。「小春日和の今日この頃」などと手紙を書きださねば失礼なように、舞い散る落ち葉とともに逃げ去りゆく光陰に感嘆することが一種の礼儀である。そういって私は自分の愚痴を正当化しておく。

私にとっては秋というのは不思議なもので、どうも夏と冬という二つの季節に従属している感じを受ける。もちろん、秋といえば「実りの季節」「読書の秋、文化の秋」など、秋そのものを特徴づける属性も数多くある。しかし、秋という期間はそれ単体では存在し得ないのではないだろうか。夏から冬へは連続的に変化し、その連続変化のうちの一部を「秋」と名付けた、そう感じるのだ。

「季節なんて全部連続的なものだろう」と言う人はいるだろう。そのとおりである。そのとおりではあるのだが、夏と冬が見せる際立ち様に対して秋というのは場繋ぎのような、夏の店じまいであり冬の下準備であるような、夏と冬を結ぶ一本のなだらかな坂として私は受け止めるのだ。そう受け止めたいのだ。

「夕暮れ」と似たものかもしれない。昼ではないが、夜ではない。連続的に変化し、昼と夜を結ぶ。そういえば、寂寥感を覚えるのは秋も夕暮れも同じだ。加えて、秋といえば夕暮れの絵面がどうも思い浮かぶ。秋になると日は短くなり、つい2ヶ月前まで明るかった時間にはもう影が長く伸びて日が沈みかける。夕暮れは秋になって大きく顔を出す。夕暮れの空に飛ぶ赤とんぼ、河川敷のすすきが寒風に揺れる。秋と夕暮れに同じものを感じるから、同じ場面として心に残るのか。

ところでさっき「店じまい」「下準備」という表現を使ったが、秋は緩衝地帯としての役目も果たしていると思う。夏の次がすぐ冬では気分の浮き沈みがついていかない。テンションの差がありすぎる。連続的な流れを辿ることで人は夏を捨て去る。冬に慣れる。「秋」を人間の都合で挟み込めるはずはないから、つまり「緩衝地帯」が欲しくて「秋」と名付けたのではないか。活動が存分にできる昼が終わることと、闇が訪れ外敵が襲う「夜」がやってくることを告げる「夕暮れ」と同じように、暑く明るい夏が終わって寒々しく薄暗い冬が訪れることを告げる「秋」を。

そんな秋はもう終わりを迎える。連続変化はもう既に冬の域に入りつつある。緩衝地帯は通り過ぎた。下準備はできているだろうか。ゆるやかに続く坂は平地に入りつつある。冬という荒涼なでこぼこ砂利道を歩き通すための準備をしっかりしておかねば。

そんな私が既に風邪を引いてしまったことを最後に書き添えておく。