暇文 暇なときに書いてみた文章

神出鬼没の自己言及

秋、雑感

気がつけば10月も終わりかけている。この年も残すところ2ヶ月余りという事実に思い当たる度に、時の流れの速さだとか自分の為したことの少なさだとかにどうも目が留まる。人が焦り出すのは、いつでも終盤だ。

などという、毎年毎年決まりきったようなことをこの季節になるとどこかで誰かが書き零している。これはいわば時候の挨拶のようなものだ。「小春日和の今日この頃」などと手紙を書きださねば失礼なように、舞い散る落ち葉とともに逃げ去りゆく光陰に感嘆することが一種の礼儀である。そういって私は自分の愚痴を正当化しておく。

私にとっては秋というのは不思議なもので、どうも夏と冬という二つの季節に従属している感じを受ける。もちろん、秋といえば「実りの季節」「読書の秋、文化の秋」など、秋そのものを特徴づける属性も数多くある。しかし、秋という期間はそれ単体では存在し得ないのではないだろうか。夏から冬へは連続的に変化し、その連続変化のうちの一部を「秋」と名付けた、そう感じるのだ。

「季節なんて全部連続的なものだろう」と言う人はいるだろう。そのとおりである。そのとおりではあるのだが、夏と冬が見せる際立ち様に対して秋というのは場繋ぎのような、夏の店じまいであり冬の下準備であるような、夏と冬を結ぶ一本のなだらかな坂として私は受け止めるのだ。そう受け止めたいのだ。

「夕暮れ」と似たものかもしれない。昼ではないが、夜ではない。連続的に変化し、昼と夜を結ぶ。そういえば、寂寥感を覚えるのは秋も夕暮れも同じだ。加えて、秋といえば夕暮れの絵面がどうも思い浮かぶ。秋になると日は短くなり、つい2ヶ月前まで明るかった時間にはもう影が長く伸びて日が沈みかける。夕暮れは秋になって大きく顔を出す。夕暮れの空に飛ぶ赤とんぼ、河川敷のすすきが寒風に揺れる。秋と夕暮れに同じものを感じるから、同じ場面として心に残るのか。

ところでさっき「店じまい」「下準備」という表現を使ったが、秋は緩衝地帯としての役目も果たしていると思う。夏の次がすぐ冬では気分の浮き沈みがついていかない。テンションの差がありすぎる。連続的な流れを辿ることで人は夏を捨て去る。冬に慣れる。「秋」を人間の都合で挟み込めるはずはないから、つまり「緩衝地帯」が欲しくて「秋」と名付けたのではないか。活動が存分にできる昼が終わることと、闇が訪れ外敵が襲う「夜」がやってくることを告げる「夕暮れ」と同じように、暑く明るい夏が終わって寒々しく薄暗い冬が訪れることを告げる「秋」を。

そんな秋はもう終わりを迎える。連続変化はもう既に冬の域に入りつつある。緩衝地帯は通り過ぎた。下準備はできているだろうか。ゆるやかに続く坂は平地に入りつつある。冬という荒涼なでこぼこ砂利道を歩き通すための準備をしっかりしておかねば。

そんな私が既に風邪を引いてしまったことを最後に書き添えておく。