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暇文 暇なときに書いてみた文章

神出鬼没の自己言及

逃した鰻は大きい

書評

ごんぎつね 新美南吉

 

 ほんの出来心でした行為が、何か重大な運命を変えてしまったとしたら。たとえ因果関係があるとは限らなくても、理屈抜きに罪の意識はひとの心をさいなむ。しかしその罪悪感自体、自分の中で吹き荒れる嵐にすぎない。

 描かれるのは「ごん」という狐と、「兵十」という男の、ふれあいと言うには節くれだった物語である。〈ちょいと、いたずらがしたくなったのです。〉 ある日、兵十が川で捕まえたうなぎや魚を、ごんは川へと逃がす。いたずら狐の所業に兵十は怒る。実のところ、ごんがしたことというのはこれだけだ。

 十日後にごんが見かけた葬列は兵十の母のものであった。〈兵十のおっ母は、床についていて、うなぎが食べたいと言ったにちがいない。〉 自分の行いが床に伏せた老病人を苦しめたのではないかと、ごんは考えた。そう、ごんは自らそう思った。

 一度犯した過ちを、無かったことにはできない。「許してほしい」というただ心からの叫びが、贖罪の行動となって現れる。それが罪に釣り合うか、過ちを拭い去れるかはもはや問題ではない。彼の罪を知っているのは彼だけであり、それを許せるのもまた彼だけしか存在し得ないのだから。

 恩着せがましさと言えないまでも、「こんなにしてあげているのに」と唇を尖らせるような気持ちが我々の中にも時々現れる。〈へえ、こいつはつまらないな〉と思わずにはいられない我々の胸の奥に、かつてあれほど悔やんで申し訳なく思ったのと同じ心が潜んでいるのが、狐の、いや人の悩ましさである。

 結局のところ物語はやりきれない結末を迎える。すれ違いの善意は、ねじれの位置から抜け出すことはできない。気づくのはいつも事が為されてからだ。立ち上る〈青い煙〉は墓標である。その下には、互いの抱えていた想いのいくつかが眠っている。

 

注)「書評を書こう」みたいな流れになったのでとりあえず書きました。