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暇文 暇なときに書いてみた文章

神出鬼没の自己言及

「くまみこ」の推薦責任問題

アニメ 雑記

以前、次のような記事を書いた。以前と言ってもこのブログは大変更新が少ないのでわずか3つ前の記事である。

himabun.hatenablog.com

何故このような記事を書いたかと言えば、初回放送を見て純粋にこりゃ良い日常系アニメが出てきたなひゃっほいと思ったからだ。日曜深夜という「休日は死んだ!何故だ!」という時間帯に、このようにゆるく朗らかで頭を使わずに見られる作品があるというのは精神衛生上とてもよろしかろうと思ったのだ。思ったのだよなあ。

日本のインターネット世界になんとなく染まっていれば、この作品がどういう顛末を迎えたのかは多少なりとも耳に挟んでいるだろう。

 

いやマジで途中までは本当に良いと思ったんだよこれ。雰囲気大事なタイプのアニメじゃん。地方も地方の熊手村に住んでて、なんなら現代文明にさえ大して触れてねえんじゃねえかっていうまちが、なんかやたら大人びたクマのナツとワイワイ楽しくやってますよね、って話で、そのワイワイ楽しくの部分がああ良いなと思ったわけだ。

凄く乱暴な言い方をすれば、二人の日常は変化する必要がなくて、定常で平衡なものとして続くべきものだった。何故なら日常系としての存在価値はその安定性にある。変化が生まれるのなら、それはストーリー全体の枠組みを変動させないもので、変化の後にも世界が存続できなきゃならない。

 

くまみこ」は、その定常状態への復帰の仕方がまずかった。

変化を受容した新しい系を作るだとか、変化をifのものとして描くとか、色々やり方はあったと思うが、「そんな事実は無かったんだよと主人公には思わせておく」ってのは多分一番どうしようもないやり方だったんじゃないだろうか。

まちはむしろこの安定された環境を抜け出すことを望んでいて、ナツはまちと離れたくない気持ちもあるけど保護者的な立場として自立しようとする意思は応援している。だから、作中で描かれるように、熊手村(前近代的ななにか)と都会(現代的で文明的でつよい)のギャップを埋めようと努力するけど戸惑ってるね可愛いね、という話ができる。

しかしそこに突然、「打算的な地方公務員が村おこしのために、女子中学生をアイドルとして利用して都会に連れ出してトラウマを与える」なんていう変化をぶち込むと、それはまあ違和感がありまくりだし、更に「そんな事実は無かったんだぜ、さあ楽しい村の日々がまた始まるよHAHAHA」みたいな締め方をされると、さすがにサイコホラーという評が立つのも致し方ないと思う。

正直なところ作劇した側は「地方公務員が実際熱意を持って村おこししようとしたけど、都会慣れしてないまちちゃんにはまだ厳しかったぜ☆」ぐらいのテンションで描いたつもりな気がする。

けれども、まちちゃんのマジなグロッキー具合とかそれを顧みない地方公務員の言動とか、なんというか全部が生々しすぎたのでギャグにならなかったのでは。見てて辛いものが出来上がっていた。

アニオリの悲劇果てしなく 絶え間ないdis、さまよう視聴者の慟哭があった

 

冒頭に紹介した記事では私はこんなことを述べていた。

二人の日常をひたすら見ているアニメからして、特に何か重大なイベントは起こるような気がしない(今のところ)。

これが結果的にフラグになっており、特に因果関係はないものの心は痛い。

なにはともあれもう2クール前のアニメになってしまって、今更こんな振り返りするのも時季外しすぎなのだが、「『くまみこ』を見ろ」などという大層な記事名について誰に向くとも知れぬ申し訳なさが沸き立ってきたのでぶちまけておく所存である。